戦国時代にこの地を収めた北条家の有力家老衆の一つが大道寺家です。北条早雲とその友人たち6人が、この中でだれが一番早く大名になるのか賭けをしました。そして一番早く大名になった者にほかの6人は仕えるという約束までいたしました。それが北条氏のご由緒六家と言われ、北条氏に代々家老として仕えました。その中の一つが大道寺家です。大道寺家は北条家中一の権勢を誇った家柄で、河越城などの重要な城の城主を任されておりました。
北条家歴代当主の中で一番とうたわれたのが3代目当主の北条氏康でした。それまでは関東の諸大名の一つに過ぎなかった北条氏を関東の覇者まで持ち上げた人物です。日本三大夜戦の一つ堀川夜討(河越夜戦)で上杉の8万の軍勢をたった8000の軍勢で破った人物こそ北条氏康です。武田信玄も上杉謙信も今川義元も一目も二目も置いた人物で、小さいころの政繁にとってあこがれの人物でした。その憧れが強かった政繁にとって氏康の息子氏政、孫の氏直の横暴には目があまり、氏康亡き後、氏政、氏直親子とは疎遠になっていきます。
豊臣秀吉の小田原攻めが開始された当時、大道寺政繁は今の群馬県の安中市あった松井田城の城主をしていました。しかし、小田原の北条氏政氏直親子との不仲から家の存続をとった政繁は豊臣方の北国勢の大将である真田昌幸や上杉景勝、前田利家らに降伏いたします。そののちは豊臣家に忠誠を誓い、北国勢に参戦し、小田原攻めに参陣。そして大変武功をあげました。しかし、その後、裏切り者の烙印を押され、秀吉に常楽寺にて切腹させられてしまいます。この常楽寺には大道寺政繁の墓があり、今でもやすらかに眠っております。ちなみく義経や正室の供養塔もございます。
1549年創建の古刹で大道寺政繁の母である蓮馨寺が開基したといわれております。江戸時代には僧侶の養成機関として大いに隆盛を究め、葵のご門が許された幕府公認の僧侶育成機関でもございました。増上寺の大僧正が住職をやるなど、かなり大物僧侶を輩出しており、増上寺第10世法主の存貞上人やこれも同じ増上寺の12世法主の源誉存応上人などかなりの仏教界重鎮が住職として名を連ねております。