出張無料回収先である相模原市中央区の歴史
中先代の乱とは、北条氏が滅亡し、鎌倉時代が終わったのち、15代執権だった北条高時の遺児である北条時行が当時の御内人であった有力御家人の諏訪頼重らに担がれ、起こした乱であります。当時は鎌倉幕府ができたばかりで、地方ではまだ戦乱がくすぶっておりました。特にひどかったのが関東で、当時の鎌倉府を任されていた尊氏の弟である直義が北条時行や護良親王と激しく対立。一時は鎌倉を奪われるが、最終的には足利軍の勝利で終わりました。ここで疑問が生じます、他の親王は直義とともに、鎌倉を離れたのですが、護良親王だけは直義によって殺害を命じられます。親王とはいまでいう皇太子ですよね。なぜ直義は殺害を命じたのか?。それは次に話します。
護良親王とはどんな人物であったか。親王を表現する言葉として、反目と勇猛が挙げられます。親王とはいえ、いで立ちは戦国武将そのもので、元弘の乱などで赤松らとともに関西地域の各地を転戦し、数多くの武功を挙げました。まさに戦う親王でありました。その性格は後醍醐天皇をかなり困らせ、天皇とも容赦なく反目していたそうです。その後鎌倉幕府が滅亡、室町幕府が成立すると、今度は中先代の乱が勃発。鎌倉の東光寺に幽閉されていた護良親王は敵方にわたると手ごわいと判断し、当時の相模原中央区のあたりの地頭であった淵辺義博に護良親王殺害を命じました。殺害は行われたかどうかは不明で、義博は護良親王を奥州に逃がしたともいわれております。
勇猛果敢な猛将護良親王と義に厚い淵辺義博の話が残る相模原市中央区。そんな中央区にお住まいの方で、ご不要になったパソコンやオーディオ等の家電廃棄処分にお困りの方は、ぜひPCテックパソコン無料回収にご一報お願いいたします。安心安全な、しかも完全無料の出張無料回収廃棄処分サービスをご提供いたします。